TOPカードゲーム戦記いけっち店長の“おやじロック”(07.04.15)

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読者お便りコーナー いけっち店長の“おやじロック”



■カードゲームとギャング・エイジ。悪質な少年プレイヤーに捧げる子守唄


 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』では、こうあります。


「ギャングエイジとは、排他的な遊び仲間を求める児童期のことを指す。

 幼児期の友人関係は、機会的で継続性がない。たまたま遊び場に居合わせれば友人であり、そこを離れれば友人関係は消滅する。しかし、学齢期に達すれば、友人関係は固定化し、継続性のあるものとなる。
 この年齢の友人関係は、他世代を寄せ付けず、また同世代であっても特に認めた相手にしか友人関係の門戸を開かない。そうして、友人関係に迎え入れるに当たっては、儀式などを行い、自己犠牲的な友情を要求する。
 例えば、集団で万引きを行って、その中の一人が捕まっても、誰が共犯関係にあるかは、絶対に口を割らない。

 やがて思春期に達すれば、関心の対象は内面の世界に移行し、ギャングエイジは終焉する。ギャングは単に徒党、仲間の意でであり、強盗集団のような意味ではない。」



 ここでは、「思春期に達すれば、ギャングエイジは終焉する」と書かれていますが、実際には、「幼い価値観の共有」というぬるま湯につかり続ける事で、「他人と自分の相対化」という苦痛を伴う“通過儀礼”から逃げおおせようとする人間は多くいます。
 僕が今回、話題にしたいのは、こうした「いつまでもギャング・エイジから卒業しない者たち」の話なのですが、そうした者を表す言葉は、捜してみてもみつかりませんでした。
 「ギャングエイジの尻尾エイジ」と言うのも変なので、このまま「ギャング・エイジ」と括って話を続けたいと思います。
 ここからの文章で出てくる「ギャング・エイジ」は、子供らしく微笑ましい“仲良し集団・ギャング・エイジ”ではなく、狭い仲間同士の価値観の中で安心しようとする、“不良少年グループ”の事だとお考え下さい。

 本文へ参ります。



 思春期、打ち込むべき物を見つけられなかった少年達は、孤独を紛らわせる為に徒党を組みます。

 第二次性徴期になり、脳みそと体の成長のアンバランスさから心と体が不安定になり、「自分って何者だろう?」という自意識が芽生えますが、その年頃ではまだ、積み上げてきた人生や、誇れる実績などは何も持っていませんので、不安で不安で仕方ありません。

 正しい成長の仕方であれば、「何も誇れるものが無くて不安だからこそ、それを掴み取るためにスポーツや勉学に努力する」ものです。
 しかし、努力もせず、目的も探さず、熱中できるものも見つけられず、本当に何も無い空っぽの連中は、同じく空っぽの連中と徒党を組み、「一般的な社会の価値観」と距離を置き、「自分達の仲間だけの価値観」のぬるま湯の中に身を置きます。
 これが今回のテーマであるギャング・エイジ。

 彼らは、同じく空っぽの仲間同士集まって、傷を舐めあって慰めあって、「自分はこのままで良いんだ」とごまかし続けます。
 特に厄介なのが、暴力によって(直接的なものでなく、言葉や嫌がらせも含む)アイデンティティを得ようとする者。
 自分たちの優位性を確かめようと、外部に対して攻撃的になります。要するにいじめです。
 いじめる事により、「コイツよりはマシだ」と考え、自分たちを慰めます。
 あるいは、何かに熱中している人間を馬鹿にする事で、そういった生き方に憧れている自分の弱気を直視しないように逃げ回ります。

 この愚かで、非生産的な状況から卒業せず、さらに進むと、社会的に間違った事を積極的に行う事で、自分たちのプライドを保とうとします。
 例えば万引き。社会的に間違っている事が「解っているからこそ」やります。

 アホの中のリーダー格は、仲間に舐められないようにするために、より反社会的な方向に傾斜します。
 そっちに行っても何も無い(どころか破滅)のに、他人がやらない反社会的なことを積極的に行う事で、「自分は度胸がある」「自分は只者じゃない」と自分を鼓舞し続けます。
 そうしないと不安で不安で、仕方ないのです。
 普通の人が反社会的な行いをしないのは、「度胸が無い」からでなく、「賢明だから」という現実には目を瞑ります。

 こうした暴走したリーダーに引きずられて、ギャング・エイジのグループはより凶悪化します。最終的には警察のご厄介になりますが、反省できる所まで引き返せる心根はなかなか残っていません。

 昔ならば、大体はそうなる前に、「オヤジの拳骨」でちっぽけなプライドごと「自分たちだけの価値観」は粉砕され、正道に立ち戻ってい ました。

 が、拳骨を振るえるオヤジや、責任を持って子供達を導く大人達は、70〜80年代の「何が何でも体罰はダメ!」という社会風潮や、実際に体罰で問題を起こしてしまった人々が捕まっていく中での、
「本当は、他人の子供であっても叱った方が本人のためにも良いのだろうけども、あまりにもリスクが大きすぎる」
「よそはよそ、うちはうち」
という無責任な個人主義の中で、失われてしまいました。


 そして何より情報過多の世の中で、小知恵を付けた子供たちは、なかなか大人を尊敬できずにいます。
 今の世の中の情報の多さは危険です。子供たちという、まだ整っていない小さな器に、器が壊れるほどの情報が入り込んでいます。

 そんな状況だから、子供たちの半数以上が「死んでも生まれ変わると思う」とアンケートに答え、しかもその理由が、仏教の輪廻思想に根差したしっかりとした理念ではなく、「漫画で書いてるから」「なんとなく」という不安定なものになるのです。

 実際、先日投身自殺した少年の書置きは、
「お父さんお母さん、できるやつに生まれ変わって会いに来る」
という、「簡単に人生をリセットできる」と軽く考えているものでした。
(せっかく大ヒット作、“Death Note”が、ヒット作の義務として、「死んだ後には何も無い。無である。」事を伝えてくれたのに・・・・)

 器に受けきられないほどの情報により、現実感覚が育たないままに生きる子供たちの危うさには、目も当てられません。

 「嘘を嘘と見抜けない者は・・・」という、ネット世界の標語は、一見「馬鹿は放っておけ」「自己責任」という正しい言葉のように聞こえますが、まだ判断力の幼い子供達の事は一切考えられていない、無責任で視野の狭い言葉なのです!


 “死ぬ事”の恐ろしさ、取り返しの付かなさにしても、叱られて叩かれて痛みを覚え、怪我をして痛みを覚え、喧嘩して痛みを覚え・・・「痛いという事は、苦しくて怖い事なんだ」「死ぬほどの痛みなんて、イヤだな」と本能でストップするほどに、“痛み”や“苦しみ”を刷り込まれていなければ、理解はできないでしょう。

 また逆に、もう死んでも良いと思えるほどの達成感、幸福感も経験しておかないと、自分の人生を失う事に「もったいない」という感慨も起きません。

 全ては、「情報だけで知っているつもりになってはいけない」という事なのです。
 自分で本当に体験し、頭だけでなく体も使った“知識”にしなければならない、大切な事なのです。
 そうしないと、「生きている」とは言えないし、また、生きていく事も出来ないのです。


 ・・・・こうした、生きていくうえで本当に大切な事を伝えるのは、大人たちの役割です。
 歪んだギャング・エイジの子供達に「オヤジの拳骨」を浴びせ、力尽くでも正道に立ち直らせるのは、大人の役目。
 でも今の世の中は、まだ大人のそうした大切な役割を、簡単には容認してくれません。



 そろそろ本題に入りましょう。
 ギャング・エイジとカードゲーム。

 全部ではありませんし多数派でもありませんが、わざわざ「中高生の○○プレイヤーは態度悪い云々」と言われる事情はたしかにあります。

 ある少年たちの実例を紹介しましょう。
 とある遊園地で行われた某カードゲームイベント。
 小学生以下限定の大会に、中学生なのに身分を偽って参加し、賞品をかっさらうグループ。
 勝利回数により賞品がもらえるこのイベントで、彼等は効率よく賞品を稼ぐために、対戦相手の子供たちに、
「はやくしろ!! 馬鹿!」
「馬鹿! んな余計な事しないでさっさと負けろ!」
「ばーか! ばーか!」
と喚きたて、場合によってはスコアシートを奪い取り、あっという間に勝利ポイントを稼いでいきます。

 当然、小学生の子供たちは泣いて帰ります。
 泣いて帰った子供たちに、親は「そんなカードゲームなんか辞めなさい!」と言います。
 ここでも、カードゲームそのものが悪者にされてしまいます。

 少数のグループで寄り集まり、シャークトレードで相手を騙して稼いだ事を自慢し、初心者をもてあそんだり、中学生の身分で小学生限定大会に出場して賞品を稼ぐ奴等。

 つい先日の某カードゲームのイベントでも「5回勝ったらプロモカードがもらえる」というイベントがありましたが、勝ったら○、負けたら×のハンコを押してもらえる簡単な方式だったため、
「○印の偽造ハンコを作っていくつもの勝利を偽装し、プロモを数十個もらう」
という悪質な手段でプロモをかき集める下劣な精神構造の持ち主が複数いました。
(何でも、数年前から同じシステムなので、毎年同じ偽造ハンコが使えるそうです)

 真面目に戦って、やっと5回勝ってプロモをもらったプレイヤーたちは、まさに「正直者が馬鹿を見る」です。

 さすがに運営側も、そうした問題点に気付かないはずは無さそうなのですが、その場での決定権を持たない下請けのスタッフでは、何も出来ないのが現実のようです。
(現場スタッフでも、悔しさに唇をかみ締めている人間はいるに違いありません。・・・そう考えたいものです、が、毎年そのままというのはいささか・・・)

 全部、本当にあった事です。
 皆さんの中にも、デュエルスペースで態度の悪いプレイヤーと当たり、
○カードを乱暴に叩かれる
○手札破壊の時カードが折れるほど強くむしられる
○乱暴な言葉で威嚇される
○トレードなどの最中、ちょっとした隙にファイルからカードを盗まれる
などといった、“カードゲームそのものが嫌いになりかねない”酷い目にあった事があるかもしれません。
 僕も、自分の店でさえ、
「こんな気分になるぐらいなら、カードゲームをわざわざ続けたくない!」
と思えるほど、気分を害したことが何十回もあります。
(そのおかげで気付く事ができた商業的方法論があるのですが、それはまた別項で)



 彼らはなぜ、こうした下劣な行為を行って、平気でいられるのでしょうか?
 のみならず、むしろそうした行いを、自慢げに仲間同士で話し合うのはなぜでしょうか?

 カードゲーム・ギャングエイジ。
 それは世代的なものから発生したと、僕は考えています。
 ポケモンや遊戯を幼稚園・小学生低学年で経験した世代が、ちょうど小学年・中学の「ギャングエイジ」のころに、“デュエルマスターズ”が発売され、本格的なカードゲーム・ブームが始まりました。

 ほとんどの、多くのプレイヤーはその中で(実に小中学校の80%強の子供たちがカードゲームで遊んでいたという驚愕の事実!!)、カードゲームによって、交渉・説得・相互理解といったコミュニケーション能力、デッキ構築による論理的思考の育成、勝負する事の勇気、勝つ事の意義、その達成感を得た時の充実感といった、かけがえの無いものを数多く学んでくれました。
 ポケモン、遊戯王、デュエルマスターズやガッシュベルといった、優れたカードゲーム(ここでは各TCGの枝葉末節的な問題点は無視すべきでしょう)が、彼らの心が育成される時代にあった事は、とても大きな財産だと僕は思います。 

 しかし、彼らの中には、少年時代という何も実績を積み上げられない時期に、自意識だけが肥大化し、唯一、人並み以上にできるカードゲームだけが拠り所になった者がいました。
 カードゲームしかまともに出来ない彼ら・・・・
 彼らはそこに依存し、不安だからこそプライドが高くなり、そこだけで強者になって安心しようとします。
 そして同じ価値観の仲間とつるんで初心者をいじめたり、店やメーカーの嫌がる事をわざと進んで行います。



 素直にカードゲームを楽しんでいる子供たちを、彼らの吐く毒からどう守り、どう戦うか。
 そしてできうる事ならば・・・彼らを正道に立ち返らせる事は、できるのか。

 こうした問題を、メーカーが取り締まる事は残念ながら、難しいようです。
 お客さまだから、という単純な「遠慮」ではありません。もっと根本的な事情です。

 取り締まる権限が無いのです。

 国が犯罪を取り締まり、個人を拘束したり罰則を与えたりする権限を持つ理由は、この国が、国民1人1人が法を守り、協力し合って社会を作り上げていく“共同体”であるからです。
 共同体の中でルールを破った者は、共同体の維持のため、罰されなければなりません。
 なぜ罰せられる義務があり、罰するほうはその権利を持つのか。それは、その者がその共同体によって“生かされて”おり、利益を得るかわりにルールを守る、という契約に基づいて生きているからです。
 普通に生きていると忘れがちですが、ものすごく基本的なことですね。
 逆に言えば、国は国民の安全に対して義務を請け負っているといえるでしょう。


 で、これをカードゲームのメーカーとユーザーの立場に置いてみます。
 ・・・・・どうでしょう。メーカーはどういった権限でユーザーを「罰する」事ができますか?

 恐喝まがいのプレイやトレードに対して、人間として「怒る」事は可能ですが、「今後、大会には参加させない」などの「罰する」権限は持ちようがありません。

 「ルールを守って正しく遊ぶから、どうか買わせて下さい」と言わせて買って貰った訳ではないのです。何の契約も無いのです。
 「自由にお使い下さい」と売った物なのですから、それについてどのように扱われようと、罰を与える権利は持ちようが無いのです。

 かように、メーカーの立場と言うものは、実は弱い。
 ろくでもないプレイヤーがいる環境を放っておくメーカーは無責任だ、という意見はありますし、僕も心情的には賛成なのですが、何しろ「取り締まる権限が無い」のでは会場で注意するのがせいぜいで、「要注意人物はあらかじめ会場に入れない」などは難しいでしょう。
(もちろん、カードの盗難などであれば純粋に警察沙汰ですので、話は別ですが)


 これが例えば、単なるユーザーの立場を超えて、メーカーとの何らかの契約を果した者に対しては事情が異なってきます。
 例えば、一部のゲームで行われている登録制度。
 この場合では、メーカーの決めた「プロとはこうあるべき」という契約内容に目を通し、理解と納得をした上で判を押し、プロになった者には判を押した時点で契約内容を守る義務が発生し、その代わりに賞金を得る権利を得ます。
 よって、そうした者に対してのみ、契約内容を逸脱した者に対してメーカーは、契約の権限として「罰を与える」事が可能となります。

 こういった具合にゲームによっては「胸を張ってカードゲームをプレイできる環境」を作っていく努力は、メーカーとしても可能ではあります。
 また、志の高いプレイヤーの、ごく自然な自信に裏打ちされた誇りのある言動は、カードゲーム・ギャング達を正道に導く灯火ともなるでしょう。 

 プロゴルファーのタイガー・ウッズは人間的にも、多くの人たちの尊敬を得ています。
 頂点の人間がそうであるから、ゴルフファンは安心してゴルフを“紳士のスポーツ”として楽しめる。そういった側面があるのは事実でしょう。

 もっと簡単に言えば、実態がどうであれ頂点がクズであれば、その組織はほとんどの人にクズに見られることが多いのが現実。
 それは、競技や趣味でも、同じ事ではないでしょうか。


 話を戻しますが、メーカーの対応について。
 「一般のユーザーに対しては、罰する権限を持たない」メーカーでも、買って頂いた商品がなるべく長く、できるだけ楽しんでもらえるよう、良い環境を作り続ける努力を続けるべきでしょう。
 それを怠れば、それはそのメーカーへの不信という形で跳ね返ってきます。

 たとえば昔、ボーイズホビーフェスティバル等の会場で行われていた『マナー向上委員会』は、素晴らしい企画であったと思います。
 あれがあったからこそタカラという会社を信頼していた人は多かったのではないでしょうか。
 今度は、エンターティメント性を高めた上で、「マナーの悪い人にどう対抗するか」を啓蒙する形で始めてみれば良いのでは無いでしょうか?
 なにしろ聞きに来る子供は、もともと「マナーの良い子供」です。彼等をさらに“良い子”にするよりも、彼等に悪と闘う術(または護身術)を教えるほうが、より効果的であると思います。

 また、他にも、メーカー主導でマナーの向上を促す手段は、色々あると思います。
 遊戯王のアニメ・マンガで、イカサマプレイヤーのパンドラと対戦した遊戯は、パンドラのシャッフルに対し、「ショット・ガン・シャッフルはカードを痛めるぜ!」とクールに指摘しています。
 ・・・いまだに、これを対戦時に言う少年は数多くいます。ここに、何か答えのひとつが隠されているような気がしませんか?

 さすがに昔のように、カードゲームを売った後は知らないよ、イベントも何も勝手にやってくれ、というメーカーはほぼ無くなりましたが、これからはさらに、大きな問題となっている「カードゲームのやり取りで傷つく子供たちのケア」にも踏み出して、より良い環境を提供できるサービスを考えていくべき時期に来たのではないでしょうか。
 そのためのノウハウを立派に積み上げていくメーカーこそが、“カードゲームメーカー”としての顧客の信頼を得ていく事になると、思います。



 カードゲーム・ブームの中で育った仇花、“カードゲーム・ギャング”とも言うべき「育ち損ねた」少年たち。
 素直にカードゲームを楽しんでいる子供たちを、彼らの吐く毒からどう守り、どう戦うか?
 そして、できうる事ならば・・・彼らを正道に立ち返らせる事は、できるのか?

 ここまでで、メーカーの講じるべき手段、方法については、ほんの少しですが意見を述べさせて頂きました。
 では、僕たちカードショップやユーザーが、身の回りでできる事は無いのでしょうか?

 ものすごく馬鹿馬鹿しい話に聞こえるかもしれませんが、僕はその手段の一つを、実体験で知っています。
 彼らに、カードゲームで勝つことです。
 のみならず、彼等が納得する理論で、「強いデッキの作り方」を教える事です。
 いや、本当の話。

 なんとなれば、彼らのアイデンティティを思い出してみてください。
 彼らは、小さなコミュニティでかたまって、他人をカードゲームで“おとしめる”事で自尊心を保っています。
 カードゲームが強い、カードゲームに詳しい。その事だけが、彼らのアイデンティティです。
 幼い価値観ですが、そこで止まっていますから、他の常識や社会的・道徳的な考え方に、価値を見出したり、感銘を受けたりする事がありません。
 だから「大人のいう事を聞かない」のです。

 では、「カードゲームの強い大人」の言う事であれば?
 彼らが認めざるを得ないほどの実力を持つ大人が、彼らの言葉(彼らに理解しやすいよう、例えば道徳的な話をカードゲームに置き換えて説明する)で話せば、それは彼らの心に届くのではないでしょうか。

 彼らの価値観で彼らに認められた大人のいう事であれば、彼らはその大人を手がかりに、正道に立ち返るチャンスを得ます。
 (余談ですが、これとは逆に、暴力団が新人を得るのは、「暴力という価値観」を持った少年にとって、「暴力のプロ」である彼等が、唯一認めることの出来る大人・・・だからかもしれません)

 僕は何度か、「大人のいう事を馬鹿にして聞かない少年たち」とカードゲームで戦い、打ち破り、その胸襟を開かせて話し合った事があります。
 彼らは、本当は望んでいます。大人に導かれる事を。しかし、自分たちの価値観に歩み寄り、納得させてくれる大人が少ないから、成長できずにいるのです。



 カードゲームは、素晴らしいコミュニケーション・ツールです。世の中には、カードゲームを入り口に、引きこもりの少年を救おうとしている先生すらいます。

 この、人と人を結びつける優れた手段、単なる遊びを超え、人を助ける道具となり、文化ともなりうるTCGの、「仇花」とも言える数々の欠点を、一つ一つ丁寧に摘み取り、やがて日本の誇る「遊びの文化」として育てる事が出来るのは、我々、ひとりひとりの力だと、自分の経験から、信じて言い切ることができます。



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